グルジェフの学校は、グルジェフの思想を実践する共同生活の場だったようです。
当時、グルジェフは、今でいうところのスピリチュアル・リーダーであり、神秘的な思想を唱え、独自のダンスや音楽を作り出す神秘家として世界的に有名でした。
そのような人物が直接指導する場として、この学校が設立されたようです。
ただ、そこにはグルジェフの親戚や仲間が生活し、彼らの生活費も全てグルジェフが賄っていたようです。
そのためグルジェフは、海外で大々的な講演などをして、お金を集めていたようです。
著者は、様々な縁があってこの学校で生活をするようになりましたが、著者の体験は、当時のグルジェフの人となりがわかる貴重な記録になっています。
ほとんどの人が「プリオーレ」と呼んだ、「人問の調和的発展研究所」とは、何であったのだろうか?
十一歳の私には、プリオーレはある種の特殊な学校で、その学校の指導者が、すでに述べたように、多くの人たちから夢想家、予言者、偉大な哲学者とみなされた人であったという単純な事実にすぎなかった。
グルジェフ自身、プリオーレにおいて彼が試みていることは、より大きい外の世界を再現する小世界を創造することであり、そういう世界を創造する主な目的は、生徒たちを未来の人間、生、経験に対して準備することである、と説明したことがあった。
言い替えれば、一般に読み書き、算術の技能を身につける、いわゆる学校と呼ばれるものではなかった。
グルジェフが教えようとした、わりに理解しやすいことの一つは、現実の人生そのものに自己を準備するということであった。
ここで私は、子供の目で見、理解した「研究所」について書いている、ということを指摘しておく必要があろう。とりわけ、グルジェフの理論に接したことのある人たちに対してそうする必要があろう。
私は、グルジェフの説く哲学に興味をもったとか、惹きつけられたという人たちに対して、研究所の目的や意義を定義しようとしているのではない。
私にとっては、このことは確かだが、その学校は私が知っていたどんな学校とも異なる学校、つまり、たんに別の学校であり、基本的に異なったのは、「生徒」の大部分が成人であったという点にある。
私自身と兄を除き、他の子供たちはグルジェフの親戚か、姪、甥、あるいは彼の「自然」の子供たちであった。
子供たち全員合わせても、大した数ではなかった。
総勢十人しかいなかったのを憶えている。
学校の日課は、いちばん小さい子供たちの他は、だれに対しても同じであった。
朝六時の、コーヒーとドライートーストが出る朝食で一日が始まった。
七時からは、それぞれがグルジェフに与えられた仕事を始める。
昼間の仕事が中断されるのは、正午の正餐(たいてい、スープ、肉、サラダ、プディングの類)、午後四時のお茶、夕刻七時に簡単な夕食をとる食事どきだけであった。
夕食後八時半に、体操か舞踊の授業が「スタディーハウス」と呼ばれる建物で行なわれた。
こうした日課が週六、どの日も規則どおりに繰り返されたが、土曜の午後は女の人たちがトルコ風呂へ行く日であった。
土曜の宵には「スタディーハウス」で、上手に踊れる生徒たちによる舞踊の「公演」が、他の生徒や、週末にしばしば訪れる客たちのために催された。
公演のあと、男性たちがトルコ風呂へ行き、風呂のあとで「饗宴」のような特別な食事が出る習わしであった。
こういう遅い晩餐には、子供たちは食事客としては参加せず、給仕かキッチンの手伝いとしてだけ加わった。
日曜は休息日であった。
(出典:「魁偉の残像」フリッツ・ピータース著 めるくまーる社刊)
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