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ニーム・カロリ・ババの物語75 瞑想をしようとすると、マハラジはよく邪魔をしました。

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ニーム・カロリ・ババと瞑想についてのエピソードをご紹介しています。
 
ニーム・カロリ・ババは、瞑想の邪魔をよくしたそうです。
 
急激に瞑想が進み過ぎると、心身がついていけなくなる可能性があるようですね。
 
 
最近は、マインドフルネスなど、瞑想が世界的なブームになっています。
 
これは、とても素晴らしいことだと思っています。
 
多くの人が、日常生活の中に瞑想を取り入れるようになって、瞑想が一般化していくと、怪しげなカルト教団などの必要性もなくなると思います。
 
もちろん、世間に広まるというのは、いい意味ではわかりやすくなり、悪い意味では、表面的なものになっていくということですが、それでも多くの人が瞑想をするようになると、瞑想の文化というものが、より成熟していくようになるのではないでしょうか。
 
 

マハラジは独特の方法で、瞑想と集中について教えました。
瞑想中に喜びを感じはじめると、即座に身体を揺するなどして連れ戻しました。
あるとき、なぜ私のサマーディを止めたのか、マハラジに質問したことがあります。


おまえは肉体のなかにいて、心には限界がある。
こういうものは、ゆっくりと成し遂げなくてはならない、さもないと精神が異常をきたしてしまうのだ、とマハラジは言いました。
マハラジには、個々人の肉体の受容力がわかっていたのです。

 

マハラジは、彼の目の前では決して瞑想をさせませんでした。

いまでも、私がマハラジに心を集中しようとすれば、最悪のいたずらをして、瞑想の邪魔をするでしょう。

しかし、だからといって、私にマハラジからの祝福がないわけではありません。

 

瞑想をしようとすると、マハラジはよく邪魔をしました。
たとえば、私たちが座っていて、仲間の誰かが瞑想をはじめたとします。
すると、マハラジは「瞑想の妨害者」を二人送ってよこしました。
ひとりはマハラジの運転手で、もう一人は運転手の友達の子供でした。
マハラジは二人を送り込むと、みんなを揺すって瞑想から追いだしたのです。

 

マハラジは座っている私たちに、「よろしい、瞑想しなさい」と言っておきながら、一分もたたないうちに冗談を言って、中止させることもありました。
また別のときには、私たちを彼の「オフィス」に呼び、歌いなさいと言いました。
歌いはじめましたが、誰も熱心に歌わなかったので、しばらくすると歌が終わってしまいました。
するとマハラジは、別の部屋から大声で「つづけなさい」と怒鳴りました。
ふたたび歌がはじまり、それが終わるともう一度「つづけなさい」と言いました。


三時間ほどたってようやく歌が盛りあがり、本当にすばらしい歌声になりました。
歌い終わったとき、みんな自然な瞑想状態になっていました。
すぐに別の部屋から「夕食を食べなさい」という声が聞こえ、全員が部屋に案内されました。
私たちは瞑想の空間に決して執着することができませんでした。

 

私は瞑想がとても重要だと思っていました。
それで、瞑想の真髄を伝える先生が、コーサニというヒマラヤ地方の人里離れた小さな村で夏の雨期を過ごすことを知り、三人の西欧人と一緒に、静かな夏の集中訓練をするための入念な計画をたてました。
その計画について話すと、マハラジはただ「好きなようにしなさい」と言いました。
「行きなさい。あとで連絡する」

 

コーサニの家はすばらしく、私たちは大喜びで生活をはじめました。
夏の瞑想計画は、着実に実現に向かっているように見えました。
トイレを掘り、交替で水をくみ、料理をつくりながら、至福にひたってヒマラヤを眺め、先生のアナーゴリカ・ムニンドラがやってくるのを待っていました。

 

二週目になると、何人かの西欧人が村にやってきて、下にある小さなホテルに滞在していることがわかりました。
私たちは、この家には彼らを招待しないようにしようと決めました。
ムニンドラが来たら訓練をはじめるために、その場所を確保しておきたかったのです。
しかし、西欧人はつぎつぎとコーサニヘやってきました。
彼らは山頂にあるこの家から疎外されていることを、快く思っていませんでした。
実際には、マハラジがここに彼らを派遣していたのです。


「コーサニにいるラム・ダスのところに行きなさい。

あれは初心者のコースであって、ラム・ダスのコースではない」


腹が立ってきました。
マハラジは、私たちが四人だけでいたいことを知っていたはずなのに、故意に総勢二十名にもなる人を送ってきたのです。
私たちは、何かあっても当初の計画を貫き通すことを心に固く決意しました。

 

しかしながら、マハラジの遊戯(リーラ)の力を甘く見ていました。
二週目の金曜日に、ムニンドラから手紙が届いたのです。


「ブッダ・ガヤーでいくつかの用事をしなくてはならなくなりました。

今年の夏はコーサニヘ行けそうにはありません」


これが、その計画の結末だったのです。
私たちは静かな夏の瞑想計画をいったんあきらめ、村に来ていたほかの西欧人といっしょに、谷の反対側のアシュラムに移りました。
そして、そこで実り多い情熱的な夏を過ごしたのです。

 

夏の終わり頃、マハラジに呼ばれてケンチに戻りました。
ダルシャンにいくと、マハラジは笑っていました。


「ラム・ダス先生、ラム・ダス先生、仏教徒の先生は来なかった!

ラム・ダス先生、ラム・ダス先生」
 

マハラジは甲高い声で笑いながら、私のあご髭を引っぱりました。
間違いなく、夏の計画は、たまたま失敗したわけではありません。
マハラジが陰でちゃんと糸を引いていたのでした。

 

マハラジは私に、ひとりきりになって、あまり多くを話さないように指導しました。

さらにアージュニャー(額のチャクラ)に集中して、マハラジのことを考えるようにとも言いました。

 

ある夏の日、私たちはマハラジのいるところから五十マイルほど離れたコーサニにいました。

そこで、私はマハラジの写真をたくさん集めて、ひとりで部屋にこもり、五日間の断食をしました。


この修養をはじめるにあたり、『マハーバーラタ』のパーンダヴァ兄弟の物語を読みました。

兄弟のなかでは、アルジュナの腕がいちばん優れていました。

伝説によれば、ほかの兄弟はアルジュナの腕を妬んで、なぜアルジュナがそんなに優れているのか、グルにたずねたそうです。

 

「何も特別なことはない。ただアルジュナはおまえたちよりも強く望むからだ」とグルは言いました。
これを証明するために、グルは鳥の目を弓矢で射るという課題を出しました。

アルジュナは、この課題をいとも簡単にやってのけました。

あとでグルは、それぞれの兄弟に何を見たかとたずねました。

ひとりは鳥がいた木について話し、もうひとりは鳥とその色について話しました。

するとアルジュナは「私は鳥の目を見ます」と答えたのです。


アルジュナが鳥の目を見たように、私もマハラジを見たいと思いました。

それには、マハラジを瞑想の焦点に据える必要がありました。

マハラジを瞑想の焦点に据えれば、同時に目や精神や心の焦点をマハラジに合わせることになるからです。

一日か二日たつと、彼の写真は意味がないように思え、すべて取りはずしました。

しかし、私はマハラジの存在を部屋のなかに感じていたのです。

四日目になると、彼が身近に感じられ、まるですぐ後ろに立っているような気がしました。


私は断食によって、感受性がとても敏感になっていました。

それで、しばらくたってからマハラジがもはや私の背後からいなくなり、その存在が部屋から消えてしまったように感じたときには、ひどくうろたえました。

しかし、部屋から消えてしまったのは、分離した存在としてのマハラジでした。

 

というのも、瞑想をつづけているうちに、マハラジは次第に近づいてきて、ついに私の内側に消えてしまったのです。

私はひとりでした。

孤独感ではなく、ただひとりきりでいるという感じがしたのです。

力や明晰さ、満ちたりた感覚と同時に、音が鳴っていても内側には静けさを感じていました。

人類最後のひとりになったような感覚と少し似ているかもしれません。

 

部屋から出て、ふたたび人といっしょに過ごすようになると、そのような感覚はゆっくりと消えていきました。

しかし、いまではマハラジと一体化していくこの道のなかに、私の自由があることがわかっています。

 

(出典:「愛という奇蹟」ラム・ダス編著 パワナスタ出版)

 


ババジと18人のシッダ28 老子(ボーガナタル)1

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老子(ボーガナタル)という聖者についてご紹介します。

 

老子は、日本でも非常に有名な方ですが、元々はボーガナタルという聖者で、中国人の肉体に入って、中国で老子としての活動をしたそうです。

 

この辺のことは、一般の歴史ではわかっていませんが、一つの説として読んでみてください。

 

ボーガナタルの師匠は、カランギ・ナタルという方で、350歳の時に不老不死の状態になったそうです。

 

その後、自分の教えを中国に広めるために、ボーガナタルに活動を任せたそうです。

 

聖者や仙人の逸話というのは、私たちの常識では考えられないような話が多いですが、これが事実であるとするなら、老子の教えというのは、インドやヒマラヤ系の聖者の教えなのかもしれません。

 

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ババジにとってのジュニャーナ・ヨーガ(監訳者注:哲学的なヨーガ、究極の自己認識をもたらすヨーガ、あるいは超越的な真理の認識を重んずるヨーガのこと)のグルである、ボーガナタル(通称Bogar[ボーガル]は、「ボーガル・ジュニャーナ・サガラーマ」(Bogar Jnana Sagarama: 557節から成る「大洋のようなボーガルの人生伝」[Bogar's Oceanic Life Story]の第2節第3行~第4行)と題された詩の中で、自身がタミル人であると述べている。

 

ボーガナタルはこの詩の中で、彼にジュニャーナ・ヨーガを伝授したのは偉大なシッダ、カランギ・ナタル(Kalangi Nathar)であると述べている。
カランギ・ナタルはインドのカーシー(ヴァーラーナシー)で生まれた。

彼は350歳のときに、不死の状態を意味する「ソルバ・サマーディ」の域に至り、後に教えの場の中心を中国に定めた。

彼はシヴァ神をその起源とする「聖なる9人の修行者」(Nava Nath Sadus)と呼ばれる古代の霊的な伝統に属していた。

この霊的な伝統に縁のある重要な寺院は9ヶ所あるが、このうちの5つの寺院がヒマラヤ山中にある。

これらはすなわち、アマルナート(シヴァ神が自身のシャクティ・パートナーであるパールヴァティー・デーヴィーに初めてクリヤー・ヨーガを教えた地)、ケーダールナート、バドリーナート(インド)、カイラサナート(チベット)、そして、パシュパティナート(ネパール)である。


ボーガナタルはクンダリニー・ヨーガの4段階を実践した。

ボーガナタルは集中的なヨーガの修行の最終段階を行なう地として、現在のタミル・ナードゥ州の南西部に位置するパラーニ・マライ(Palanimalai:マライは[山]の意)を選んだ。

そのパラーニにおいて彼は、ムルガン神、すなわち永遠の若者の顕現である「クマーラスワミ」(Kumaraswamy)の恩寵によって、「ソルバ・サマーディ」に至った。

こうしてパラーニにあるクマーラスワミ寺院は、ボーガナタルの活動の中心地となった。

彼はアストラル体や肉体のレベルだけでなく、他者の肉体に入ることで数多くの国々を訪れた。

ボーガナタルは自作の詩の中で、自らが造った飛行機のような乗り物で中国へ行き、そこで中国人のシッダたちと討議を交わした後にインドへ戻ったと述べている。

 

チリのムイカ族(Muycas)が残した記録から、ポーガナタルが南米を訪れたことが確認されている。

「ムイカ人に律法をもたらしたボーチャ(Bocha)は、顎ひげを生やした色白の男で、長い衣をまとっていた。

彼は暦や祭礼を定めた後に、やがて他の者と同じように姿を消した。

(インカ、アステカ、マヤの各種族のさまざまな伝説によれば、他にも優れた教師たちが太平洋を渡って来たという)」

 

現在のカリ・ユガが始まる直前の紀元前3102年に、来たるべき暗黒の時代において、人類が霊性の道に沿って進歩するための最善の方法を決定するために、大勢のシッダたちが集まって会議が開かれたという。

その結果、愛と献身のヨーガであるバクティ・ヨーガが最良の道として選ばれた。

そしてボーガナタルは集まったシッダたちから、彼らが最も敬愛する神、「パラーニアンダヴァル」(Palaniandavar)、すなわちパラーニの神(ムルガン)を礼拝する儀式を定める役目を委ねられた。


パラーニアンダヴァルの神像を5種の果物と蜂蜜からなる「パンチャアミルタム」(pancha-amirtham)を始めとする多数の供物に浸す儀式はボーガナタルが定めたものであり、今日まで受け継がれている。

この儀式に使われる神像は、カリ・ユガの期間を通して存続する物質から造られる必要があった。

花崗岩は当時知られていた物質の中では最も耐久性に富むものであったが、先のような儀式において数千年間も使われると、磨滅や損壊を免れ得ないであろうと考えられた。

このためにボーガナタルは、9種の神秘の薬草や化学物質から成る「ナーヴァ・パシャナム」(nava pashanam)を使って、花崗岩よりも堅牢な神像を造り上げた。

「ナーヴァ・パシャナム」を作るための8つの成分は、神像の鋳型の中で混ぜ合わされ、それらの成分を凝固させる触媒として9番目の成分が加えられた。


近年、この神像の成分を調査した科学者たちは、神像から得た少量のサンプルを過熱したところ、それがたちどころに昇華してしまうことを発見して驚嘆した。

神像の成分は現在でも神秘のベールに包まれている。
儀式の際に神像を浸すために使われる供物には、微量ながら神像の成分が含まれることになる。

これらの供物が帰依者に配られて食されると、彼らの霊的な向上が促進されるのである。

 

あるときカランギ・ナタルは、隠遁生活に入って3千年間をサマーディの状態で過ごすことを決めた。

彼は自分の布教活動を引き継がせるために、タミル・ナードゥにいるボーガナタルにテレパシーを送り、中国へ来るように命じた。

ボーガナタルは交易路をたどって船で中国へ渡った。

 

中国にたどり着いた後に、ボーガナタルはシッダ科学のすべてについてカランギ・ナタルから教えを受けた。

こうした教えには長寿を得るためのカーヤ・カルパと呼ばれる薬草の調合法や使用法も含まれていた。

 

カランギ・ナタルがトランス状態に入った後に、ボーガナタルは中国人への布教という使命の遂行に着手した。

彼は使命の遂行を容易にするために、死亡した中国人男性の肉体へ自分の生気体を移して、以後は「ボーヤン」(Bo-Yang)と名乗った。

「ボー」(Bo)は、「物質的、霊的な至福」を意味する「ボーガム」(Bhogam)という語に由来する。

「ボーヤン」という名の由来となっている「至福」は、クンダリニー・シャクティ、すなわち根源的で女性的な「陰」のエネルギーが目覚めて、頭頂にあるサハスラーラ・チャクラ、すなわちシヴァの座である男性的な「陽」の極へと上昇してそれと合一することで起こる。

 

こうして人間の女性的な側面と男性的な側面とが統合された状態が、「サッチダナンダ」、すなわち、「至高の実在、至高の意識、至高の至福」である。

この状態は、シャクティ(陰)とシヴァ(陽)との合一(ヨーガ)を意味する。

 

(出典:「ババジと18人のシッダ」マーシャル ゴーヴィンダン著 ネオデルフィ刊)

 

 

グルジェフがいた子供時代8 グルジェフが開いた窓の向こう側に立ち、私を見下ろしていた。

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著者は、グルジェフに、いかなることがあろうとも芝刈りを続けるように言われていました。

 

その後、グルジェフは交通事故に遭い、絶対安静の状態になりましたが、著者は芝刈りを続けました。

 

そのことで、芝刈りの騒音がグルジェフの病状に悪い影響を与えると周囲の大人たちに注意されて、著者は孤立無援の状態になりました。

 

それでも著者はグルジェフの言いつけを守り通し、ついにグルジェフが回復したのを知って、歓喜に溢れたのです。

 

グルジェフの意図はわかりませんが、少なくとも、著者が芝刈りを続けたということに関して、グルジェフは著者の忠誠心のようなものを感じたのかもしれません。

 

それが後に、著者への信頼に繋がっていったのではないかと思います。

 

 

一九二四年の真夏まで、私の全存在は芝生に集中した。

それまでに合計四日で、四つの芝生全部が刈れるようになっていた。

私に与えられた他の仕事は、順番に回ってくる「キッチンの手伝い」か、「コンシェルジュ」と呼ばれる小さな番小屋での「門番」であったが、こういうことは重要ではなかった。

芝刈り機の音以外、他のことはほとんど憶えていない。


悪夢は、突然終わった。

ある早朝、館の前面に向けて芝刈り機を押しながら、私はグルジェフの窓を見上げた。

奇蹟が起こるのを期待するように、私はいつもそうしていた。

他ならぬこの朝、ついに奇蹟的兆候が現われたのであった。

グルジェフが、開いた窓の向こう側に立ち、私を見下ろしていた。

 

私は立ち止まり、私も彼を凝視した。

安堵が洪水のように押し寄せた。

かなり長く思えたが、その間、グルジェフは身動きしなかった。

それから、おもむろに手と腕を動かし、右手を唇のところに運び、ある動作をした。

あとでそれが彼特有の動作であるのを知った。

親指と人指し指でロひげを真ん中で分けてから、手を体の脇に落とし、微笑した。

この動作が彼を現実のものとした。
その動きがなかったならば、向こうに立っていた姿が、ただの幻想か、あるいは私の想像の産物にすぎないと考えたかもしれない。


強烈な安堵感が押し寄せて、涙が溢れ出た。

両手は芝刈り機を握りしめたままだった。

彼が窓際からゆっくり立ち去るまで、私は涙にぬれ、グルジェフを見守った。

私は再び芝を刈り始めた。

ぞっとするような騒音であった機械の音が、喜びの音に転じた。

私は、あらん限りの力を出して、何度となく芝刈り機を上下に動かした。

 

勝利を発表するのは昼まで待つことにしたのだが、私には何も証拠がなく、発表すべき何ものもないことに気がつき、今ふり返ると意外なほど賢明であったと思えるのだが、昼食をとりに行ったとき私は何も言わなかった。

だが、嬉しさは抑えきれなかった。
 

夕刻までには、グルジェフが危険状態から脱したということが知れ波り、夕食時の雰囲気は、感謝そのものだった。

グルジェフに何が起ころうとも、私だけに責任があるのだと確信していた使命感は、共通の歓喜の中に喪失した。

現実に起こったことといえば、私に向けられた敵意が、発生したときと同じように、突然消失したということだけだった。

グルジェフの窓の近くでは騒音を立ててはいけないと言われた数週間前の事実かなかったなら、すべてが私の心の中にだけ存在したのだったと考えたであろう。

いかなる勝利もなく、いかなる評価も受けなかったのは打撃であった。

 

(出典:「魁偉の残像」フリッツ・ピータース著 めるくまーる社刊)

 

 

究極のアート4 洗礼者ヨハネ

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ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」です。

 

前回の「サルバトール・ムンディ」にも感じたのですが、私は、ダヴィンチの絵画には、何か不気味なものを感じます。

 

不気味というのは、悪い意味ではなくて、底知れぬ深みを感じるのです。

 

それは、モデルが中性的(男性なのか女性なのかよくわからない)という部分もありますし、表情も、なんとも言えない不思議な表情をしています。

 

ダ・ヴィンチに関しては、様々な憶測やオカルティックな解釈がありますが、確かに、あまりにも飛び抜けた才能を発揮したので、本当に地球人だったのかと疑われるのも無理はないと思います。

 

こういう不思議な絵画を見ると、深い変性意識が生成されますので、そのような意味でも、究極的な芸術作品というのは、とても面白いのです。

 

言葉の力とガーヤトリー・マントラ6 ソルフェジオ周波数

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地球の現代科学では、周波数が人体にどのような影響を与えているのかについては、まだ解明されていません。

 

携帯電話やWifiの電波、テレビやラジオの電波など、私たちの生活空間には、無数の電波が飛び交っていますが、電波も周波数の一種です。

 

携帯の電波などは、電磁波過敏症という病気が存在するように、人体に悪い影響を与えているのではないかと言われています。

 

また、低周波や高周波の騒音も、同様に様々な不調を誘発すると言われています。

 

このような明らかに人体に悪い周波数が存在しますが、反対に、音楽で使われている音階というのは、人体に良い影響を与える周波数だと思います。

 

その中でも特に、ある種のヒーリング作用があると言われているのが、ソルフェジオ周波数です。


369Hz
417Hz
528Hz
639Hz
741Hz
852Hz


これらがソルフェジオ周波数ですが、特に528Hzには、特殊な作用があると言われています。

 

そのため、528Hzの音が入った様々なCDが発売されています。

 

 

528Hzというのは、純正律で440Hzでチューニングした時に、Cになる音階です。

 

純正律というところに、秘密があるのかもしれません。

 

音楽というのは、どのような周波数でも、何らかの癒しの作用はあると思うのですが、その中でも、ソルフェジオ周波数のような特定の周波数には、癒しの効果を高める作用があるのかもしれません。

 

これからの時代には、こういう周波数の秘密が、科学的に解明されていく時代になると思っています。

ニーム・カロリ・ババの物語76 人びとへの奉仕が、自分を救済する唯一の道だ。

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ニーム・カロリ・ババと奉仕についてのエピソードをご紹介します。
 
奉仕が大切だというのは、インドの聖者がよく言うことですが、奉仕ほど難しいものはないなと私は思います。
 
相手が必要としていることで、なおかつ必要なタイミングを見極めて、奉仕をしなければなりません。
 
 
インドは、井戸さえもない貧しい村が多いです。
 
そのため、食事を提供することが大きな奉仕になります。
 
インド占星術で、カルマを解消する儀式として、貧しい村で食事を提供する奉仕が勧められることが多いです。
 
貧しい人に食事などを分け与えるというのは、素晴らしい奉仕になるのだと思います。
 
 

なぜ、こんなに大勢のならず者に囲まれているのかと質問されて、マハラジは「病人だけが医者のところに来る」と答えました。
そして、信頼された年配の家庭医のように、昼も夜も帰依者たちの求めに応じて「往診」をしていました。
したがって、こうしたマハラジ自身の行動は、彼がよく勧めていたサーダナ―無欲の、愛にあふれた奉仕―の完璧なモデルになったのです。

 

帰依者のもっとも多くを占める一家の主人に対して、マハラジは一般に厳しい苦行や激しい瞑想修練、複雑な儀式を勧めず、カルマ・ヨーガを奨励していました。
カルマ・ヨーガとは、人生を献身的な奉仕の行為にすることによって、神へと至る道です。
このような道をとおして、マハラジは、ラーマーヤナやバガヴァッド・ギーター、聖書に記される、もっとも偉大で献身的な読み物の教えを映しだしました。
しかしマハラジは、一生懸命に行為をするだけでは十分ではないと強調しました。
むしろ、神を想起しながら行為をすること、神の恩寵のなかで愛をもって行為をおこなうことが肝心なのです。

 

ある男はアシュラムで忙しく働いていて、ほとんどマハラジのダルシャンを受けませんでした。
ある晩遅く、たまたまみんなが散り散りに帰宅したあとで、マハラジはひとりでタケットの上にいました。
すると、その男がやってきて座りました。
彼がダルシャンに来る暇があるようには思えなかったので、マハラジは驚いたようすでした。


「おまえの望みは何だ?」
 

彼はただひと言、「アートマ・ギャン(真の自己を知ること)です」と答えました。
するとマハラジはこう言いました。


「すべての人に奉仕することがアートマ・ギャンだ」

 

心の浄化に関して、マハラジはときどきギーターの一節を引用しました。


「ギーターに書かれていように、おまえは行為をとおして一点に到達し、洞察力を獲得することができる」

 

「マハラジは、あなたに何か特別な教えをあたえてくれましたか?」
ブラフマチャリ・ババは優しく微笑むと、「マハラジは、私に奉仕を教えてくれた」と答えました。
私たちはみな、奉仕のあとでは、しばしのあいだ無口になったものです。

 

どうしたらこの世で成功できると思うかと、マハラジはHCにたずねました。
勤勉で誠実に働くことです、とHCは答えました。
するとマハラジは、神の恩寵も必要だ、どんなに一生懸命仕事をしても、神の恩寵がなければ成功しないと言ったのです。

 

あるとき、どうしたら絶えず神を想起できるでしょうか、と私はマハラジにたずねました。
マハラジは、ナーラダ(天上の賢者)と肉屋の話をしました。
ヴィシュヌ(神の一側面)がいつも肉屋を誉めていたので、ナーラダは不思議に思いました。
肉屋はいつでも忙しく、一方のナーラダは、一日中二十四時間ヴィシュヌを賛美していたからです。

 

ヴィシュヌはナーラダに、オイルが縁まで入った容器を一滴もこぼさず、山頂まで運ぶという仕事をあたえました。
仕事が終わると、ヴィシュヌは、何度私のことを思いだしたかとナーラダにたずねました。
ナーラダは、容器を持って山登りに集中しなければならなかったので、そんなことはできるはずがありませんと答えました。


ヴィシュヌは、ナーラダを肉屋のところに行かせました。
すると肉屋は、仕事をしながらいつも神のことを思っていると答えたのです。
それからマハラジは「外でどんな仕事をしてもよいが、潜在意識で神を想起するように、心を訓練しておきなさい」と言いました。

 

マハラジはよく私に向かって、あまり人とかかわらないで、ひとりで過ごすように指示すると同時に、人びとに奉仕し、食べものをあたえなさいと言いました。

あるとき、私はひとりで食事をし、誰ともかかわるなといわれたので、部屋のなかにいました。
その晩、西欧人のカップルが喧嘩をしました。

そのあとでマハラジは私を非難するような目つきで見ると、こう言ったのです。

 

「ラム・ダスはどこにいたのだ?

なぜおまえたちを助けなかったのだ?」

 

私がどのようなサーダナをしたらよいかと質問すると、マハラジはこう言いました。


「人びとへの奉仕が、自分を救済する唯一の道だ。
おまえにはディヤーナ(瞑想)も祈りの儀式も必要ない。
生きとし生けるものに奉仕をしなさい」

 

マハラジ、どうしたら神を知ることができますか?


「人びとに奉仕しなさい」

 

マハラジ、どうしたら悟りを得ることができますか?
 

「人びとに食べものをあたえなさい」

 

マハラジ、どうしたらクンダリニーを覚醒させることができますか?
 

「人びとに奉仕し、食べものをあたえなさい」

 

(出典:「愛という奇蹟」ラム・ダス編著 パワナスタ出版)

 

ババジと18人のシッダ29 老子(ボーガナタル)2

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老子(ボーガナタル)という聖者についてご紹介しています。

 

ボーガナタルは、薬草の調合と呼吸法などの修行によって12000年の年月を生き、その後、老子として200年間、中国で教えを説いたということです。

 

その後、中国を後にして、インドに帰る途中で、現代にも伝わっている老子の書物を書いたそうです。

 

中国の仙人というのは、老子の技法を修行した人たちだと思いますので、その源流は、インドのヨーガにあったということですね。

 

不老不死とか、12000年を生きるとか、信じられないような話ですが、そういうことができる人々がいるとしたら、人間というものの奥深さを感じます。

 

 

ボーガナタルは自分の媒体として選んだ中国人の肉体が老化するのを見て、この肉体の限界を克服しようと決意した。

彼は呼吸法や他のヨーガの行法の効果がソルバ・サマーディとして結実するのに必要な寿命を得るために、カーヤ・カルパの薬草の使用によって延命を図った。

彼は自から著した詩、「英知の経書8」(Bogar Jnana Sutra-8)の第4節において、35種の薬草を使って念入りに錠剤を作った後に起きたことを生々しく描写している。

 

「細心の注意と忍耐によって、

我は(カーヤ・カルパの)錠剤を造り、

これに秘められた意味と重要性を解さぬ愚者や

懐疑論者を待つことなくこれを飲んだ。

我は異邦人(Parangis)の地に生き続けた。

それは実に1万2000年もの歳月であった!

我は永い時を生き、生気のオージャス

(vital ojas:昇華した霊エネルギー)を命の糧とした。

そのオージャス・ビンドゥによって、我はボーカルという名を得

肉体は丸薬と同様に黄金色となり、今、我は黄金の世界に在る」

(ヨーギーS.A.A.ラマイアの英訳に基づく)
 

ボーガナタルは弟子の中から最も優れた者3人と忠実な犬を選んで彼らを山の頂に連れて行った。

ボーガナタルはまず犬に1粒の錠剤を与えた。

すると犬は見る間に倒れて死んでしまった。

次に彼は一番弟子のユーに錠剤を与えた。

するとユーも立ちどころに倒れて死んでしまった。
彼は残りの2人の弟子にも錠剤を与えたが、その時点ですっかり怯えてしまった彼らは錠剤を飲み込まずにそれを素早く隠した。

ボーガナタルは残りの錠剤を自ら飲み下し、やはりそこに倒れ込んだ。

残された2人の弟子は、悲嘆のあまりに泣き暮れながら、死体を埋葬する道具を取るために下山した。

2人の弟子が山に戻ると、そこには死体の代わりにボーガナタルが残した一枚の短い手紙があった。

そこには次のように記されていた。


「カーヤ・カルパの錠剤はよく効く。

忠実なユーと犬がトランス状態から覚めた後に、私は彼らを元通りにしてやった。

お前たちは不死身になる機会を逃してしまったのだ」


このカーヤ・カルパによってボーガナタルは中国人の肉体を変容させて、1万2000年もの長い年月にわたって生き続けた。

この間に彼の肉体は黄金の輝きを放つようになった。

(ただしソルバ・サマーディの状態へと至る生理的な変容は、後にパラーニにおいてクリヤ・クンダリニー・ヨーガの最終段階や他の関連行法を実践することによって完成された。

ボーガナタルのサマーディの体験については、彼自作の詩である「サマーディへのイニシエーション」(Initiation into Samadhi)の中に臨場感溢れる描写が見られる)


前述の「英知の経書8」の第1節においてボーガナタルは、近代において何百万もの人々が呼吸法を実践して、薬物濫用を免れるだろうことを予言的に述べている。
 

「統合をもたらすヴェーダーンタの詩歌を朗唱しよう。
ウマー(宇宙の聖母、シャクティ)の聖なる御足に栄光あれ。
汝に催眠術から錬金術(カーヤ・カルパ)に至る
科学の知識を授けよう。
丸薬や錠剤を欲することなく、プラーナーヤーマの偉大なる
科学的な技法が説かれ、幾百万もの民衆や清き乙女たちが
これを受け入れるであろう」

 

中国人の弟子たちとのこの一件の後に、ボーヤンは「老子」の名でも知られるようになり、以降、約200年間にわたって人々を指導した。

彼は精液と性エネルギーを蓄えて霊的なエネルギーへと昇華させるタントラ・ヨーガの行法を何百人もの中国人の弟子に教えた。

彼が教えた高度な行法は、霊性の向上を志向する相手と性的な交渉を持つ際に、肉体では会陰に当たるムーラーダーラ・チャクラからサハスラーラ・チャクラに向けてエネルギーを上昇させるというものである。

これによって、昇華されたエネルギーである「テージャス」(tejas)が生じて、体のすべての細胞を満たすようになる。

紀元前5世紀に老子(すなわちボーヤン=ボーガナタル)に会った孔子は、後に彼について次のように語ったといわれる。

 

「鳥は飛び、魚は泳ぎ、獣は走ることを私は知っている。

走るものは網で捕らえ、泳ぐものは糸で釣ることができよう。

しかし、風雲に乗って天まで昇る龍ともなれば、私の理解を超えている。

今日、私は老子と会った。

彼はまさに龍のような人物であった」

 

中国人、とりわけ道家にとって、龍は根源的な力であるクンダリニー・シャクティの象徴である。

中国での使命を果たした紀元前400年頃、ボーガナタルは弟子のユー(Yu:インド名はPulipaniプリパニ)と他の側近の弟子たちに伴われて、陸路中国を後にした。

道教の文献によれば、老子は函谷関の関守に懇願されて、自らの教えの真髄を説いたという。

こうして彼は37節から成る「道経」と42節から成る「徳経」という2冊の書を著した。

 

「徳経」の中で老子は、「汝に害をなした者に徳行をもって報いよ」と述べている。

これは老子と同時代のタミル人シッダ、ティルヴァッルヴァルが「ティルックラル」(Thirukkural)の中で述べていることでもある。

道家におけるヨーガ的な伝統は、タミル・シヴァ・ヨーガ・シッダーンタの行法と酷似する方法によって不老不死を追求してきた。

 

(出典:「ババジと18人のシッダ」マーシャル ゴーヴィンダン著 ネオデルフィ刊)

 

 

グルジェフがいた子供時代9 芝を刈るのに何日かかったかと尋ねた。

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何があっても芝刈りを続けていた著者ですが、グルジェフが回復して、芝刈りの様子を見にきました。

 

そしてグルジェフは、著者に無理難題を突きつけるのです。

 

グルジェフの教育というのは、人間関係のトラブルの中で自分を客観的に見つめさせたり、無理難題を突きつけてその人の潜在的な能力を引き出したりする方法だったようです。

 

そういう意味で、人生そのものが修行になるということですね。

 

ただ、こういう手法というのは、単なる瞑想の技法とか、形式的な修行法を実践させるのではなく、人生そのものの混乱から学ばせるという手法なので、当然、そこには様々なドラマが生まれるわけです。

 

それによってグルジェフが、そのドラマに巻き込まれたり、様々な批判を受けたりすることもあったのだと思います。

 

 

だが、これでこの一件が完結したのではなかった。

数日後、グルジェフは暖かそうに身仕度し、ゆっくり歩きながら現われた。

彼は、初めて私を面接したテーブルの所に腰をおろした。

私はいつものように芝刈り機を上下に動かしながら、たどたどしい足取りで動き回っていた。

その日の芝刈りが終わるまで、グルジェフは、周囲のことは何も念頭にない様子で腰掛けたままだった。

私が刈り終えた芝生は、四つ目の芝生であった。

グルジェフの回復という衝撃のおかげで、三日で芝が刈れてしまった。

芝刈り機を押して、物置き小屋に戻しに行く途中、グルジェフは私に目を向け、彼の所へ来るようにと合図した。
私は芝刈り機を手放し、彼の所へ行き、傍らに立った。

グルジェフは笑いかけ―私はその微笑を再び「思いやり深く」と表現しよう―芝を刈るのに何日かかったかと尋ねた。

私は誇らかに、三日で全部の芝生が刈れたと答えた。

グルジェフは溜め息をつき、前方に広がる広大な芝生をじっと見つめ、立ち上がった。

「一日でできなければならない」と言った。

「このことは重要だ」
 

一日!

私は呆気にとられ、複雑な気持になった。

何をおいても約束を守ったというのに、何のほめ言葉も与えられなかったばかりか、事実上、私は罰せられたのである。

私は顔に出して反応したはずなのだが、グルジェフは頓着せず、片手を私の肩にかけ、かなり重たくもたれた。

「このことは重要だ」と繰り返し、「一日で芝が刈れるようになったら、他の仕事があるのだから」と言った。

 

(出典:「魁偉の残像」フリッツ・ピータース著 めるくまーる社刊)


言葉の力とガーヤトリー・マントラ7 音相

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人や商品の名付けにおいて、名前の発音が脳にどのような影響を与えるのかを研究している分野があります。

 

母音、子音、濁音、破裂音などの組み合わせによって、私たちが抱く印象が大きく変わるそうです。

 

心地よく感じたり、インパクトを与えたり、不快に感じたりするネーミングがあるそうです。

 

さらには、子供の名前が、その子の脳に影響を与えて、特定の性格を形作る可能性があるそうです。

 

それが、「音相」と呼ばれる分野です。

 

 

主に、ネーミングとして活用されているようですが、発音がどのような印象を与えるのかというのは、文学の分野でも非常に重要な要素です。

 

特に、詩や短歌や俳句では、言葉の響きが重視されます。

 

 

日本では、仏教のお経は、呉音という読み方で伝えられています。

 

インドのサンスクリット語とは違いますが、独特の響きがあり、これはこれで脳に何らかの影響を与える力があるのだと思います。

 

たとえば、般若心経の場合、

 

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか

 

というのが呉音での読み方ですが、サンスクリット語の場合は、

 

Gate Gate Paragate Parasamgate Bodhi Svaha

ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボディ スヴァハ

 

になります。

 

発音が変わるので、作用も変わるはずです。

 

発音によって、そこに生み出されるバイブレーションが変化するということに、何からの深い意味があるかもしれません。

 

音相の研究では、こういう発音の違いによって、脳に与える印象の違いを分析することができるようです。

ニーム・カロリ・ババの物語77 その怒りを解き放ちました。

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ニーム・カロリ・ババと怒りについてのエピソードをご紹介します。
 
後半のエピソードのように、聖者は決して怒らないと思っている人が多いです。
 
これは、聖者に対するステレオタイプなイメージなのだと思います。
 
怒りが悪いものだから、聖者は悪いことはしない、という思い込みなのだと思います。
 
ここには、善悪や感情というものの問題が関わっていると思います。
 
シルディ・サイババのエピソードでも、激しく怒る場面がよく出てきます。
 
聖者や聖人だから、全く怒らないということはないのだと思います。
 
むしろ、怒ることによって、何かもっと大切なことをしようとしているのかもしれません。
 
それは、人々の怒りを浮上させて浄化させたり、何か深い意味があるのかもしれません。
 
 

マハラジは、怒りに悩まされる人びとに対して、さまざまな方法で接していました。

遅かれ早かれ、それらの方法はすべて、怒りを表面に浮かびあがらせ、私たちが怒りを手放す助けになりました。

ときおり、マハラジから絶えまなく罵倒の雨を浴びせられる帰依者もいました。

このような、根底に流れる愛とひとつになった罵声は、もっとも深くに隠された根深い怒りに対しても、強力な万能薬となったのです。

 

ときにはマハラジの周囲で事態が進展し、まるでひどい炎症を起こした腫れものさながら、怒りが表面に浮かびあがるようなときもありました。

そして、まさしく適切な瞬間に、マハラジは必要な言葉をかけたり、一瞥をあたえると、その怒りを解き放ちました。

そして、術後の魂を鎮めるためにミルクをあたえたのです。

 

マハラジは二年にわたって、寺院を管理させる数多くの仕事をダダにあたえると、家には帰しませんでした。
その期間、マハラジは朝から晩まで、ダダに面と向かって、あるいは本人のいないところでも罵倒しつづけました。
このような訓練によって、ダダは怒りを制御することを学びました。

 

二年後、マハラジはダダの妻に、夫はまだ怒ることがあるかとたずねました。
すると妻は、めったに怒らなくなったと言ったのです。

 

 

ダダがマハラジの罵倒をまったく気にしなくなったことは、二人の会話からも明らかでした。
あるとき、近くからずっと発砲音が聞こえていました。


「空仰を撃っているだけです、ババ」
 

「空砲とは、いったい何だ?」
 

「あなたがいつもやっていることです、マハラジ」
 

「そうか、わしも空砲を撃ちつづけているのか」
 

マハラジはうれしそうでした。

 

あるとき、「ダダは芸術に精通している」とマハラジは言いました。
するとダダは「あなたは罵倒に精通しています」と答えました。

 

マハラジの口があまりに悪くて、マーたちは泣いてしまいました。
するとマハラジは言いました。


「わしの罵倒を聞けるほど強くなければ、おまえたちは世界を直視することができない」

 

ある日、いつものように西欧人が日中、寺院の敷地の裏手に行かされたとき、私は(感傷的な理由から)一九六七年に滞在していた建物の二階の部屋に行って座ろうと思いました。
この部屋の窓のひとつは、寺院の裏手からは見ることのできない正面の壁に面していました。
この窓からぼんやり外を眺めていると、ある光景に視線が引きっけられ、窓に釘付けになりました。
しかし、窓からかなり後ろに下がっていたので、外からは私の姿は見えないはずでした。

 

階下にあるマハラジの部屋の窓の付近で、寺院の仕事をしながら、よく私たちに通訳をしてくれた帰依者が泣いていました。
彼がマハラジと話していたのは明らかでした。
やがて彼は立ちあがり、泣きながら寺院の裏手に歩いていきました。
彼の姿が私の視界から消えると、マハラジが戸口に現れ、中庭に出てきました。
マハラジは、まるで気が狂ったライオンか象のように立っていました。
言葉は聞こえませんでしたが、一見してかなり激高し、周囲を見回しながら怒鳴っているのがわかりました。
正面の中庭にいた人びとは皆、恐れおののいていました。
私にとって、その光景はとてもダルマ的には見えませんでした。
それに何はともあれ、マハラジは、聖者は決して怒らないと言っていたのです。

 

私のなかに、裏切られたという感情が芽生えました。
マハラジは、見るからに激怒していました。
そうすると、彼は聖者ではないことになります。
一体どういう種類のグルなんだ?
言うこととやることが違っているとは。
今度は私のほうが腹を立て、一九六七年以来、はじめて自分の心がマハラジから冷めていくのを感じました。
そして、マハラジの元を去り、ひとりでやっていかなくてはならないという考えが、脳裏に浮かんだのです。

 

私は深く失望し、よろよろと降りて行き、みんなといっしょにに座りました。
しかし、何も言いませんでした。
あとになって、私が目撃した直後に、マハラジは部屋に戻ってダダを呼び、「ラム・ダスは、怒っているところを見たか?」と、さり気なくたずねたらしいということを知りました。
ダダは見ていないだろうと答えましたが、マハラジは見たはずだと言い、メッセージを伝えるためにダダを使いに寄こしたのです。
ダダは不機嫌そうに座っている私を見つけると、こう言いました。
「怒っているところを見たかと、マハラジが聞いています」
「見たさ」
「何か質問があればあとで答える、と言っています」
ダダはそう言って、立ち去りました。

 

しばらくすると、泣いていた帰依者が手にカバンをもって、寺院から追放されたと言いました。
あとで知ったところによると、倉庫にある四十ポンドのジャガイモを腐らせたことが原因だったようです。
彼は涙ぐんで別れを告げ、去っていきました。
この若者は親切ではありましたが、とくに有能というわけではなく、どちらかといえば厄介な人物でした。
ふだんならば彼が出ていくところを見ても、気の毒には思わなかったにちがいありません。
というのも、彼は絶えず西欧人たちに、とりいろうとしていたからです。

 

しかしながら、このような状況で、私は突然、敗者を力づけずにはいられないような気分になりました。
立ちあがると、彼のあとについて寺院の正面に出ました。
呼ばれもせずに正面に出ていくというだけで、それはひとつの反乱行為でした。
この気落ちした若者が寺院の門を出る際、私はわざわざ近づいて彼を抱きしめると、多少の金銭と、万一に備えてデリーでの私の住所を書いたメモを渡しました。
そして彼がいなくなると、映画『真昼の決闘』の対決場面さながらに、喧嘩ごしで寺院に戻りました。
私がマハラジの反対側についたことが、みんなにわかったのです。

 

一日中待ちましたが、すぐには説明がなさそうでした。
いつものように最終バスが出発する二、三分前になってはじめて、私たちは寺院の正面に呼ばれました。
そのとき、一組の夫婦が結婚上の問題をかかえており、マハラジは二人に直接話しかけていました。
マハラジは互いのなかに神を見て、怒りを手放さなくてはならないと言っていました。
私は目撃した場面を思いだして、心のなかで、せせら笑いました。
それからマハラジは、カビールの言葉をわかりやすく言いかえました。


「自分のしたいことを人にしなさい。

しかし、その人を決して心から追いだしてはならない」

 

そして、マハラジはまっすぐに、しかと私を見据えたのです。
この言葉は、私の心に焼きつきました。
私はすぐに、この言葉をこの夫婦や先ほどの帰依者に対するマハラジの態度、あるいは目撃した光景に対する私自身の反応にあてはめてみました。
私はまたしてもメロドラマにはまり込み、すべてが幻影だということに気づきませんでした。
背後に愛があることを忘れていたのです。
このできごとについて、マハラジは何も言い訳しませんでしたが、それだけに彼の言葉は、なおいっそう私の胸に強く響きました。

 

(出典:「愛という奇蹟」ラム・ダス編著 パワナスタ出版)

 

ババジと18人のシッダ30 老子(ボーガナタル)3

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老子(ボーガナタル)という聖者についてご紹介しています。

 

ボーガナタルはインドに戻り、様々な場所で、教えを伝えたようです。

 

その後、ブリハディーシュワラ寺院を建立して、ある段階で肉体を離れたということです。

 

 

仙道は、丹田を重視するのですが、小周天や大周天といった技術は、クンダリニー・ヨーガがベースになっているのかもしれません。

 

老子の弟子たちが、そのような技術を実践してきたのでしょう。

 

それらの仙道の技術が、ヒマラヤのヨーガの技術を起源としているというのは、一般には知られていないことですが、人間の能力を開発するという意味では、根本的には同じなのだろうと思います。

 

実際に、肉体を変容させて、不老不死になるといったことが可能なのかもしれません。

 

 

インドへの帰路、ボーガナタルの一行はヒマラヤ山中にあるいくつかの寺院とアッサム地方にある有名なタントラ・シャクティの寺院であるクマルパ(Kumarupa)を訪れた。

また、カイラース山の近くでは、シヴァ神の祝福を得て、彼の傑作とも言える70万節から成る詩歌を著した。
この詩歌は後に7000節にまとめられて、「ボーカル・サプタ・カンダム」(Bogar Saptha Kandam)と呼ばれるようになった。

 

その後ボーガナタルは、インドのガヤーとアラビアを訪れた。

これらの地からタミル・ナードゥヘ戻ったボーガナタルは、中国産の薬塩や彼が「シーナ・チャラム」(Seena charam)と呼んだ化学、そして磁器の製法を伝えた。

また彼はコートラッラム(Courtrallam)にいる彼のグル、アガスティヤと同地にあるシッダの文芸院に、7000節から成る自作の詩歌の原稿を提出して評価を求めた。

この詩歌は皆から卓越した作品であることを認められて称賛された。


この後、コンカナヴァル、カルヴッラル、ナンディースワル、カマラムニ、サッタムニ、マッチャムニ、スンダルアナンダルを含む多くのシッダが、カーヤ・カルパやヨーガの科学を学ぶためにボーガナタルの弟子となった。

やがてボーガナタルは、教えを広める使命を弟子のプリパニに託した。

ボーガナタルは、サトゥラ・ギリ(Sathura Giri)とシヴァ・ギリ(Sliiva Giri)でタパス(集中的なヨーガの実践)を行った後に、さらにタパスを行ってムルガン神の恩寵を得られるように、スリランカのカタラガマに向かった。

ここでボーガナタルはムルガン神から得た霊感にしたがって、名高いヤントラを祀る寺院を建立した。

このヤントラはカタラガマの地で彼の内に花開いた、1800枚の花弁をもつ蓮華のチャクラを表している。

続いてボーガナタルはパラーニヘ向かい、その地でソルバ・サマーディの域に達した。

この後、彼はカタラガマで隠遁生活に入り、紀元211年頃にババジ・ナガラジと出会ったのである。


その後、六朝時代(紀元220~590年)の後に、ボーガナタルは数人のタミル人の弟子と共に中国に戻った。

このとき彼は、タミル・ナードゥにおける活動を中国人シッダのプリパニに託した。

900年頃、タミル・ナードゥのタンジョール(タンジャーヴール)においてシヴァ神を祀るブリハディーシュワラ寺院が建立されたとき、ボーガナタルは80トンにも上る冠石を高さ60メートル以上もある寺院の頂上へ載せる方法を宮大工に助言した。

この偉業は、仲介役を果した弟子のカルヴッラルや他1名のタミル人の弟子の働きに加えて、今日の伝書鳩のような鳥を使った伝言の伝達によって実現した。

ボーガナタルの提案によって全長8キロの傾斜路が築かれ、石はこの傾斜路を伝って寺院の頂上に載せられた。
これは古今を通して行われた土木工事の中でも、最も優れた偉業の一つであるといえる。

この工事が行われたのと同じ頃に、ボーガナタルはブリハディーシュワラ寺院の裏に、彼の優れた弟子の一人であるカルヴッラルに捧げる小さな聖堂を建てることをタンジョールの王に進言した。

 

ボーガナタルはパラーニで肉体次元を離れたといわれるが、アストラル次元においては活動を続けており、弟子や帰依者たちに創造的な刺激を与えている。

稀にではあるが、彼は特別な目的のために人間の肉体に入ることもある。

ヨーギーS.A.A.ラマイア、米国ヴァージニア州とインドのコーインバトールにあるヨーガヴィルのスワミ・サッチダナンダ(Swami Satchidananda)、そしてインドのパラーニにいるシュリー・ダルマナンダ・マッダーヴァ(Sri Dharmananda Madhava)のように人々の尊敬を集めている何人かは、ビジョンを通してボーガナタルと会ったり、彼からヨーガの技法を伝授された経験を持っている。

スワミ・サッチダナンダは、以前、彼がパラーニ寺院を目指して山を登っていたときに起きた出来事について、1988年、私に話してくれたことがある。

これによると、スワミが途中で休んで瞑想をしていると、突然、ボーガナタルのビジョンが現れて彼に高度なヨーガの行法を伝授したという。

 

またヨーギー・ラマイアは、シッダ・ボーガナタルの詩について講義をするときに、まるでこのシッダの魂と才能に感応したかのように、霊感に満ち溢れた詩の解釈をする。

つまり、ボーガナタルがヨーギー・ラマイアを自分の媒体としていることに、ほぼ疑いの余地はないように思える。
ヨーギー・ラマイアによれば、ボーガナタルは近代の数多くの科学者たち、とりわけニールス・ボアやアルバート・アインシュタインの発見にインスピレーションを与えたという。

ボーガナタルはテレパシーを通して科学者の研究活動に知的な暗示を与えて、人知れず彼らが重要な発見に至るように援助しているのである。

アインシュタイン自身、あの有名な相対性理論E=MC2の発見がインスピレーションの閃きによって生まれたことを随筆の中で明かしている。

1968年、月へと向かう人類初の宇宙船が機械の故障のために危機的な状況に見舞われたときも、ボーガナタルはその念力と透視の力を使って援助した。

また彼は自分の弟子や帰依者たちを通して、科学の諸分野、医学およびヨーガに関する自らの著作の収集と出版にも当たっている。

やがてはこうした分野の研究が進んで人類のために活用されることだろう。

パラーニ寺院の境内には、ボーガナタルがそこでサマーディーに入ったことを記念する建物がある。

 

ババジにとってのジュニャーナ(英知)とディヤーナ(瞑想)の偉大なグルであるボーガナタルの著作集から抜粋した以下の詩は、クリヤ・ヨーガの入門者が伝授される特別な瞑想法を実践しながらタミル語の原文で詠まれたときに、その内容を最も良く理解することができる。

こうして瞑想者は詩の源泉へとたどり、詩の内容を広い視野で捉えることができるのである。

個々の詩はボーガナタルが1年間の瞑想で得たことの総括である。

仮に先に述べた方法で詩を解釈したとしても、せいぜい我々は彼の体験の一端しか垣間見ることができない。

こうしたプロセスにおいては、人知の限界を痛感せずにはいられない。

ちょうどこれは茶碗で大海を量ることに似ている。
 

[第1節]
  慎重に花弁の輪を描け。
  「アー」の音は修正される。
  (呼気において、その箇所に)「風」(Air)を集中せよ。
  すると、4つのすべてが分泌して現われ出でる。
  そこにとどまれ。ムーラー(根のセンター)にとどまり、
  息を吹け。
 

[第2節]
  こうして息をすると、独特なる黒色が知覚されよう。
  それを臍のセンターに見よ。
  黒色が赤色に変わり、
  続いてサマーディの体験が起こる。
 

[第3節]
  呼吸において「己」の領域に力強く息を吹けば、
  上昇する火はグルとして現れ出でる。
  そのグル、「真理」の精髄として現われる。
  これにて闇夜は終わる。


[第4節]
  生気エネルギーの根源的かつ静かなる空間にて、
  聖なる炎が闇に終止符を打つ。この空間にて、
  シッディ(聖なる力)の壷、すなわち、変容の源泉が見出され、
  光のサマーディがとどまる。
 

[第5節]
  箱は閉じられているが、汝、それを開けよ。
  固く閉ざされた蓋を開け、その内を掻き回せ。
  内、中身の半分を6「ジャーン」(jaan:手を広げた幅)の器に注げ。
  すると、驚くべき効果をもたらす「パシュパム」
  (Paspam:酸化物)が生じる。
 

[第6節]
  慎重かつ自然に、3ジャーンの高さに引き上げよ。
  静かなるシャクティを見つめ、花開かせた後に。
  汝の存在の深奥にて、彼(か)の方を崇めよ。
  サマーディが8つの領域に光明をもたらすであろう。
 

[第7節]
  光り輝ける変容の間、香油は染み入り美化する。
  美しきナンディー(シヴァ)は、
  いかに死を駆逐するかを権威をもって語った。
  サマーディにより、(肉)体を永続的なものとするために。
 

[第8節]
  内なるヴァーユ(プラーナー、エネルギー)が巡れば、
  短命な肉体は1千万の太陽に匹敵する力を発揮し、
  滅びゆく肉体は3つの時代を耐え抜くであろう。
  目覚めよ! 欲望への執着を捨てよ!
 

[第9節]
  首に集中せよ。そうしつつ、6つのチャクラから抜け出でて、
  霊妙なる活力をもつ文字に集中せよ。
  ジーヴァ(個々の魂)は王国である。
  活力に満ちたその都に集中せよ。
  大いなる努力により、汝、力強く生命エネルギーを引き入れ、
  それを保て。

 

[第10節]
  日々集中せよ。10の生気エネルギーは内に保たれ、
  ナンディー(シヴァ)の燦然たる光が目覚める。
  すると、汝、ただちに未来の潮流の目撃者となり、
  幾時代にわたって肉体が生きるかを知るであろう!
            (ヨーギーS.A.A.ラマイアの英訳に基づく)


ボーガナタルはこれらの詩の中で、自己実現や最終的には肉体にもおよぶ自己変容をもたらす方法として、クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマ(呼吸法)の実践やカーヤ・カルパの薬草処法の使用について語っているのである。

 

(出典:「ババジと18人のシッダ」マーシャル ゴーヴィンダン著 ネオデルフィ刊)

 

究極のアート5 預言者エレミア

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レンブラントの「預言者エレミア」です。

 

涙の預言者と呼ばれるエレミアの苦悩を表した絵画です。

 

 

言葉の力とガーヤトリー・マントラ8 バイノーラル・ビート

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周波数が脳に影響を与える作用として、脳波を変える作用があります。

 

脳波は周波数で表され、β波、α波、θ波などに分類されています。

δ波(デルタ波 3Hz以下)・・・熟睡時
θ波(シータ波 4~7Hz)・・・深いリラックス、まどろみの状態
α波(アルファ波 8~13Hz)・・・集中している状態
β波(ベータ波 13~29Hz)・・・活動している状態
γ波(ガンマ波 30Hz以上)・・・特殊な覚醒状態

 

特定の脳波には、特定の精神状態が伴うことが明らかになっています。


つまり、脳波を変えることができれば、特定の精神状態を誘発することができるのです。

1839年、ハインリッヒ・ヴィルヘルム・ダブは、異なる周波数の音を左右の耳から別々に聞かせると、ビート(うなり音)が生まれることを発見しました。

 

その後、1973年にジェラルド・オスター博士は、このバイノーラル・ビートが脳波に共振することを発見しました。

左耳と右耳から別の周波数を聞かせると、その周波数の差が脳波と共振するのです。

 

たとえば、400Hzと408Hzの音から生まれるビートは8Hzになります。

 

8Hzは、α波を誘発します。


同時期、ロバート・モンロー博士は、音の周波数で脳波をコントロールする研究をしていました。

 

モンロー博士も、脳全体がバイノーラル・ビートによって同じ周波数に共振することを発見しました。

さらに複数の周波数を同時に脳に送ることにより、様々な意識状態を作り出すことができる技術を開発し、それらをヘミシンクと名付けました。

モンロー博士は、何千という周波数の組み合わせから、人間の脳を強く活性化させる52種類の周波数を見つけました。

集中力、問題解決能力、創造力、記憶力、学習能力などを高めたり、体外離脱ができる周波数の組み合わせを用いて、言語による催眠誘導と融合させ、ヘミシンクの技術を発展させました。


脳波をコントロールする技術には、バイノーラル・ビートだけではなく、音の位相を用いる方法や光の点滅を用いる方法などもあります。

これらの技術は、ある特定の周波数に脳波が共振するメカニズムを使ったものです。


陰謀論では、このような技術を使って、秘密裏に特定のターゲットに特定の周波数を浴びせて、洗脳を行なっているという噂もあります。

 

技術的には可能なのかもしれませんが、このような技術が善用されることを望みます。

 

 

波の音でバイノーラルビートを作って脳波を誘導するCD

 

ニーム・カロリ・ババの物語78 その若者は「マハラジ、私は怒りを克服しました」と言いました。

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ニーム・カロリ・ババと怒りについてのエピソードをご紹介しています。
 
後半のエピソードですが、怒りを克服したと言っていた青年が、ニーム・カロリ・ババが他の人に侮辱された時に、怒りを爆発させました。
 
ここでのポイントは、人間というのは、混乱している時には、自分を制御できないということです。
 
冷静な時には、もっとこうすればいいと気づくのですが、冷静ではない時があるからこそ、人間というのは、不合理な行動をしてしまうのです。
 
そのことを理解していないと、冷静な時に、自分は自分を制御できると自覚しても、意味がないのです。
 
もう一つは、青年は、ニーム・カロリ・ババに自己同一化していて、ニーム・カロリ・ババが侮辱されたのを、まるで自分が侮辱されたように感じたということです。
 
このように、他者と自分を自己同一化するというのも、混乱した意識状態なのだと思います。
 
 

私が腹を立てると、マハラジは、温かいミルクやお菓子、噛むためのカルダモンの実を、いつも誰かに運んでこさせました。
こういったものは、怒りを静めるとマハラジは言っていました。

 

かつてマハラジの寺院にいたとき、私は強い怒りを感じたことがありました。
そのほとんどは、仲間の西欧人に対するものでした。
これらの怒りは、多少正当化できる理由もあったかもしれませんが、二週目の終わりになって、怒りが異常に爆発したときには、自分でも驚くほどでした。

 

ある日、私はこのような精神状態で寺院まで歩いていくと、昼食に遅れて到着しました。
マハラジの座る場所から見て、アシュラムの中庭をはさんで反対側のポーチには、西欧人全員がいつもどおりの並びかたで座っていました。
ここで、私たちはプラサード(このときは昼食でした)を食べながら、少し離れたところからマハラジを見ることができました。
私が到着して座ると、西欧人のひとりが、私のために食事を取りおいてあった葉の皿を運んできてくれました。
この瞬間、怒りが爆発し、私は葉の皿を放り投げたのです。
マハラジは中庭の向こう側で、それを見ていました。

即座に、私はマハラジの前に呼ばれ、庭を横切って彼の前にひざまずきました。


「何かあったのか?」
 

「はい」
 

私は西欧人を見渡しました。


「アダルマ(人びとが示す、神から遠ざかるようなふるまい)が我慢できないのです。
(西欧人たちを指さしながら)彼らのなかのアダルマが我慢できません。
自分のなかのアダルマも我慢できません。
実際、あなた以外の誰に対しても、まったく我慢できないのです」

 

私はマハラジを見ました。
そして、彼が私の魂の暗闇に浮かぶ、ただひとつの港に感じられて、泣きだしてしまったのです。
ただ泣いただけではなく、声をあげてむせび泣きました。
マハラジは私の頭を勢いよく叩くと、誰かにミルクを取りにいかせました。
涙でかすむ目で見ると、マハラジも泣いています。

 

マハラジは私にミルクを飲ませると、「私を愛しているか」と聞きました。
もちろん、私は愛していると答えました。
そして、私の気持ちがじゅうぶんに静まってから、マハラジは近づいてきて、こう言いました。


「みんなを愛するように、と私は言った」
 

「はい、マハラジ。
でも、真実を話しなさいとも言いました。
真実とは、私はみんなを愛せないということです」

 

マハラジはさらに近づき、ほとんど顔と顔が触れあわんばかりになりました。


「みんなを愛し、真実を話しなさい」

 

マハラジの話しかたは、その方法についての疑問を抱かせないものでした。
一瞬、ひとつの棺がイメージされました。
どうやら私の死を象徴しているようでしたが、その棺は、この私の肉体とは異なるかたちをしていたのです。
このイメージは、いまの会話を象徴しているように思えました。
実際、私は会話のなかで、「私が自分だと思っている存在は、みんなを愛し、真実を話すことはできない」と抗議していたのであり、これに対してマハラジは「おまえが自分だと思っている存在を終えたときに、それができるようになる。おまえが死んだとき、おまえは生まれ変わって、みんなを愛し、真実を話すようになる」と話していたのです。

さらにマハラジはこう言いました。
 

「強い怒りは、ときに最大の愛をあらわす」
 

私は先ほどまで独り善がりになって、西欧人全員に対して怒りを感じていました。
いま、庭の反対側にいる彼らを見ていると、突然、怒りがあるレベルにあり、そのすぐ下のわずかに深いところには、途方もない愛があることがわかったのです。
対人関係におけるこの二つのレベルでは、「あなたを愛しているが、好きではない」と言うことも可能でした。
そして、もしマハラジの言葉が実現されるのであれば、いずれにせよ、彼は私のグルなので、疑いを抱いてはいませんが、怒りは愛に道を譲り、手放されるはずでした。

それから、マハラジは私に取引を申し出ました。


「おまえは神を見るために、怒りで曇らない鏡を、磨かねばならない。
毎日、少しずつ怒りを手放すなら、私はおまえを助けよう」


この言葉はかなり有利な取引に思えたので、私は躊躇なく受け入れました。
以来、マハラジはずっと誠実にこの約束を守ってくれています。
それから、二十三年が経過しました。
私のなかの不純さは、望んだほど早く消え去りはしませんでしたが、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その恩寵は実現しています。

 

あるとき、私はアシュラムにいた帰依者に腹が立ち、助けてもらおうとして、道端の石に座るマハラジのところに駆けつけました。
マハラジの前にひざまずき、彼の足に頭をつけました。
マハラジはダルシャンのあいだ、私の頭にずっと手をのせてくれ、私が帰ろうとすると、抱き起こしてくれました。
膝には痣ができ、大きな砂利跡がくっきりと残っていました。
でも、砂利があることなど、まったく気にならなかったのです。
そして、怒りもどこかに消え去ってしまいました。

 

許しは、もっとも偉大な武器である。
この武器を携えた聖者は、心を乱されることがない。
怒りを即座に手放すことができるからだ。

 

あるとき、ひとりの若者がやってくると、マハラジは「調子はどうだ」と声をかけました。
すると、その若者は「マハラジ、私は怒りを克服しました」と言いました。
「それは、すばらしい!」と、マハラジは彼をしきりに誉めました。


そこには、何年ものあいだ、マハラジに家に来てほしいと頼みつづけていた男の子もいました。
しかし、彼の父親は、サドゥーも聖者も信じていなかったので、マハラジは決してその家に行こうとはしませんでした。
しかしそのとき、マハラジはこの男の子のほうをふりむき、「おまえはまだ、わしに家に来てほしいと思っているのかね?」と聞きました。


「はい、でも父に話す時間をください」
 

「行きなさい。

あとからみんなでおまえの家に行く」
 

マハラジが訪問すれば、当然ながら家のなかの上座はマハラジにあたえられ、父親はほかの場所に座らなくてはなりません。

かくして一行が男の子の家に着くと、マハラジは父親のタケットに座りました。
それから、マハラジは身を乗りだし、父親の目を見て言いました。


「おまえは偉大な聖者だ」
 

このときのマハラジの言葉づかいは、とても親しい人やカーストの低い者にしか用いない、非常に私的なヒンディー語でした。
年配の父親に向かって、このような言葉を話すということは、かなりの侮辱行為でした。
父親はうろたえましたが、自分を抑えていました。

 

しばらくすると、マハラジはふたたび身を乗りだし、「おまえは偉大な聖者だ」と繰り返しました。
父親は顔を赤らめ、興奮したものの、それでもまだ自制心を保っています。
二、三分後に、マハラジはもう一度身を乗りだすと、同じ言葉をかけました。
父親の自制心が完全に消えました。
彼は立ちあがって、マハラジに怒鳴りはじめました。


「おまえは聖者なんかじゃない。
家のなかに入って、他人の食べものを食べ、他人のベッドを使っているだけだ。
おまえは詐欺師だ」

 

その瞬間、マハラジに怒りを克服したと話していた若者が跳びあがり、男の子の父親の襟首をつかんで揺さぶりました。


「黙れ、おまえは誰と話しているのか、わかっていない。
この方は偉大な聖者なのだ。
黙らなければ、殺すぞ!」

 

マハラジは立ちあがると、当惑したように周囲を見回しました。


「いったい、どうしたのだ?
わしにいてほしくないのか?
行こう。
わしはここにいないほうがよさそうだ」


マハラジは立ちあがって歩き、外に出ると、その若者をふりかえって言いました。


「怒りを克服するのは、とてもむずかしい。
偉大な聖者のなかにも、怒りを克服していないものがいる」


「でも、マハラジ、彼はあなたを罵倒したのです」


「そうだ。
彼はわしを罵倒した。
で、どうしておまえは怒るのだ?」

 

(出典:「愛という奇蹟」ラム・ダス編著 パワナスタ出版)

 

ババジと18人のシッダ31 ラーマリンガ1

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ラーマリンガという聖者をご紹介します。

 

 

子供の頃から、非凡な才能を発揮し、霊的な叡智に溢れる詩を沢山書いたようです。

 

しかし、このような聖者でも、その後は苦しい日々を過ごし、試練を乗り越えていったようです。

 

ラーマリンガの教えも、すべての存在への慈悲と奉仕を説いたようです。

 

それによって意識と身体を変容させていくという道なのかもしれません。

 

 

近代において、ソルバ・サマーディは何人かの偉人によって達成された。

こうした存在の一人に「ヴァダルールの聖者」(The Satint of Vadalur)と呼ばれた、南インド、タミル・ナードゥの聖者、ラーマリンガ・スワーミハルがいる。

彼は「聖なる変容」の諸段階を体験して、その体験を綴った4万節の詩を残した。

ラーマリンガは、彼が湛えていた偉大な神聖さと、死を克服したことによって、さらには、シヴァ神を称える数々の啓発的な詩歌を残したことによって、南インドで最も賞賛される聖人の一人となった。

 

ラーマリンガが最も好んで使った神の呼び名は、「アルル・ペルン・ジョーティ」(Arul Perun Jyoti:至上の恩寵の光)であった。

今日、この光を称える彼の詩歌は、インドの何百万人もの学童たちによって愛唱されている。

こうした詩歌は子供たちだけでなく、ラーマリンガを自身の先駆者として認めていた、シュリー・オーロビンドやマダム・ブラバツキーのような霊的な巨人たちにも愛された。


ラーマリンガは、1823年10月5日、マルドゥール(Marudur)村で生まれた。

この村から北に1マイル(約1.6キロ)の所には、踊るシヴァ神「ナタラージャ」を祀るチダムバラムの大寺院がある。

父のラマイア・ピッライと母のチンナンマイは、お清めを受けるために、生後5ヶ月のラーマリンガをチダムバラムの大寺院に連れていった。

「恩寵の聖歌」(タミル地方では「ティルヴァルルパ」[Thiruvarulpa: Divine Song of Grace])と呼ばれるラーマリンガの詩には、このときの彼の体験が綴られている。

 

これによると、ナタラージャ像の前にある帳が上げられて、そこに置かれていた樟脳ランプの炎が揺らめいたとき、ラーマリンガは大声で笑い出し、辺りにはただならぬ神々しさが漂ったという。
至高の神の本尊と幼子との霊的な交感を目撃した住職は、駆け寄って幼子を抱きしめて、その子が神の子であることを宣言した。

同じく「恩寵の聖歌」(「ティルヴァルルパ」)の中でラーマリンガは、神はとても慈悲深く、彼が幼い頃から無条件ですべてのことを明かしてくれたと述べている。

 

この出来事から約1ヵ月後に、ラーマリンガの父はこの世を去った。

一家は生計を助けてくれることになったラーマリンガの兄が住むマドラス市に移った。

ラーマリンガが5歳のときに、彼の兄は著名な家庭教師を弟につけた。

この家庭教師の下で数回のレッスンを受けるやいなや、ラーマリンガは神を称える歓喜に満ちた詩を作り始めた。

詩の中で彼は次のように語っている。


「おお神よ、何という不思議か。

あなたはすべての知恵を私に授け、あなたへの熱烈な愛を教えてくれた。

あなたはまた、この世のすべてが蜃気楼にすぎないことを確信させてくれた。

おお慈悲深い方よ、あなたは私の内に在り、その恩寵を惜しみなく与えてくれる。

あなたは自らを降下させて私の霊的な師となり、この取るに足らない私を祝福し、物乞いをする道に追いやることもなく、必要以上のものを与えてくれた」
(『恩寵の聖歌』)
 

ラーマリンガが目ざましい霊的な成長を遂げるのを見た家庭教師は、彼に新たな教えを施すことをやめてしまった。

教育の重要性をラーマリンガに教えるために、兄はこの弟を家から締め出した。

しかし兄の妻は秘かにラーマリンガの食事の世話をし続けた。

あるとき家に戻って勉強を続けて欲しいと兄の妻に懇願されたラーマリンガは、彼女のひたむきさに心を打たれて帰宅を決意した。

これはラーマリンガが9歳のときの出来事であった。

ラーマリンガは筆記用具と学習教材を入手するやいなや、インド、マドラス市のヴィーラスワミ・ピッライ通り9番地にあった兄の家の自室に閉じこもった。

ちょうど鏡が光を反射するように、「至高の恩寵の光」がラーマリンガを通して光輝き、全知の神が彼の内に降臨したときに、彼の心は霊感に打たれ、奔流となって押し寄せる讃歌に満たされたのである。

こうして次のような詩が生まれた。
 

「あなたは私に学びの試練を課すことなく、最も学識ある者が私に教えを乞いに来るほどのあらゆる知識を授けてくれた。

おお神よ、私を支える方よ。

あなたは私が学ばずとも、あらゆる知識、英知、そして他のすべてを実現するあの光を授けてくれた」

 (『恩寵の聖歌』)

 

ラーマリンガが12歳のとき、宗教の教師であった兄が病気になったことがある。

このときに兄は、自分の代役を務めることをラーマリンガに頼んだ。

ラーマリンガが兄の代役を務めて行った講義に集まった人々は、彼が中世のシヴァ派の聖人の一人であるティルグナナサンバンダル(Thirugnanasarabandar)の詩に優れた注釈をしたことに大層感銘を受けた。
そして、元々予定されていた連続講義を、彼が最後まで続けるように強く求めたのだった。

ラーマリンガはこの出来事を、自分に使命の遂行を求める至高の神の意志であると受け止めて、人々の要望を受け入れることにした。


ラーマリンガの次の12年間の生涯については、わずかな記録しか残されていない。

しかし彼にとってこの年月は、熱く固い志を抱きながら神の恩寵の降臨を切望し続ける試練のときだったようである。

この時期についてラーマリンガはこう記している。
 

「あなたこそが常に私のすべての苦しみの証人であり、私の心の内と外を遍く満たす存在であるにもかかわらず、なぜ私はこの苦渋に満ちたあなたへの憧憬の念を語らねばならぬのか」(「恩寵の聖歌」)


1849年、名声あるタミル語とサンスクリット語の学者にして詩人であったトゥズフヴール(Thuzhuvoor)のヴェラユタ・ムダリエル(Velayutha Mudalier)が、ラーマリンガの一番弟子になった。

彼は以降の20年間にわたって、ラーマリンガ・スワーミハルについての論文を始めとする数多くの書を著した。

ラーマリンガが姪のタナンマルとの結婚を強いられたのはこの頃であった。

しかし彼に世俗的な生活をさせようという家族たちの企てはすべて徒労に終わった。

彼の妻はその生涯を処女のままで過ごすことになった。

 

次の10年間、ラーマリンガはティルヴォティユル(Thiruvothiyur)とチダムバラム(Chidambaram)において、神の慈悲の光を切望する自らの熱い気持ちを綴った霊感に溢れる詩を数多く残した。

1860年頃、ラーマリンガはヴァダルール村に転居した。

この村は南のチダムバラム、西のヴリダチャラム(Vridachalam)、北東のティルッパティルポリユル(Thiruppathirupoliyur)にある三大寺院を結んでできる正三角形のほぼ中心に位置する。

 

1867年、彼は貧しい人々に食物を与えて、旅行者や生活苦にあえぐ老人たちを温かく迎えるための慈善施設をこの地に作った。

この施設の落成式は3日間にわたって行われ、この間に約1万人に食物が施された。

ラーマリンガの論文Jeevakarunya Ozhukkamの前半がこのときに発表された。

この論文には、すべての生き物に対して慈しみの念を抱くという彼の教えの基本原則が示されていた。

 

ここでラーマリンガは「サンマルガム」(Sanmargam)、すなわち、すべての生き物に対して慈しみの心を持つ「公正なる道」に沿った生き方を提唱したのであった。

優しさは人間の生来の特質であることを彼は説いた。

神はあらゆる生き物の中に宿っているので、命あるものに優しさと思いやりをもって接することは、すなわち神に愛と優しさを示すことである。
慈悲心に溢れる人は、神の愛や恩寵によって満たされることをラーマリンガは説いた。

人は神の恩寵を得るために、自ら優しさの化身となって、他との一体感や友愛の精神を心の内に確立すべきである。

最上の慈悲の行為とは、属すカーストや共同体、地域、信条、肌の色、行い、国籍などにかかわらず、働けずに糧を得られない人々がいれば彼らに食物を施すことである。

また、万物に神が宿っていることを自覚して、動物、鳥、昆虫、さらには植物の飢えや渇きを取り除くことである。

ラーマリンガは動物の殺生を非難し、多くの人々を菜食主義に転向させた。


ヴァダルールでのラーマリンガは、弟子と共に数多くの講義を行い、彼の奇跡を一目見ようとやって来る数多くの人々の訪問を受け入れた。
こうして飢える者には食事が施され、病人は癒された。

また、諸々の哲学学派に属す学者たちは、ラーマリンガに会うことで、各自の疑念を晴らすことができた。
 

ラーマリンガは「サンマラサ・ヴェーダ・サンマルガ・サンガム」(Sanmarasa Veda Sanmarga Sangam)という名の協会を設立した。

後にこの協会名は、ラーマリンガ自身によって「サンマラサ・スッダ・サンマルガ・サティア・サンガム」(Sanmarasa Suddha Sanmarga Sathya Sangam)と改名された。

ラーマリンガが提唱した教えの名である「サンマルガム」すなわち「公正な道」は、もともとティルムラルの「ティルマンディラム」から借用されたものである。

 

(出典:「ババジと18人のシッダ」マーシャル ゴーヴィンダン著 ネオデルフィ刊)

 


グルジェフがいた子供時代10 厳粛で、苦痛を表わすグルジェフの目に他ならなかった。

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著者は、広大な芝生を一日で刈るようにとグルジェフに言われ、それができるようになったら、丘の草原の草を刈る仕事に取り掛かるように言われます。

 

これを聞いて著者は、このような無理難題を要求するグルジェフに対して怒りが湧いてきます。

 

しかし、グルジェフの体が弱っているのを見て、そのような怒りも薄れてきます。

 

そして、自分の義務として、仕事をきちんとしようと思うのです。

 

 

このようなやり取りを見ると、私は、グルジェフが著者を試していたのではないかと思います。

 

無理難題を要求するというのは、グルジェフの教育の一環でもありますが、同時に、著者がグルジェフのことをどれほど思っているのかということを試す機会にもなります。

 

もし著者がグルジェフに怒りを爆発させたり、反抗したりしたなら、著者のグルジェフへの思いというのは、その程度だったということになります。

 

そうなると、グルジェフは、重要な仕事は著者には任せなかったでしょう。

 

その辺の適性を試すという意味もあったのではないかと思います。

 

 

それから私に、彼と一緒にそれほど遠くない野原へ連れだってくれるようにと言い、歩行困難であるという説明を与えた。
私たちは一緒にゆっくり歩き始めたが、私の支えがあってさえかなり難儀しながら、彼の言った野原に沿う小路を登った。

養鶏場の近くにある岩だらけの小高い丘だった。

グルジェフは鶏舎のそばの物置小屋に行き、大きな草刈り鎌を持ってくるようにと言った。

私は言われたとおりにした。
 

それから草原の中へ私を導き、私の肩から手を放して両手で鎌を持ち、草を一掃する仕草をして見せた。

私は彼を見守りながら、グルジェフが非常な努力をはらってそうしているのを感じた。

蒼白で、目に見えて衰弱しているのが心配だった。

鎌を私に返し、物置小屋へ戻すようにと言った。

 

私が小屋から戻り、彼のわきに立つと、グルジェフはまた私の肩に重くもたれた。


「全部の芝生が一日で刈れるようになったら、これが次の仕事になる。

この草原を毎週刈るのだ。」

 

私は丈の高い草や、岩や、木や、藪だらけの傾斜を見上げた。

私はまた、自分の背丈を知っていた。

年のわりには小さく、草刈り鎌がとても大きく思えた。

驚きのあまり、グルジェフを見つめる以外になかった。

その場で、いまにも涙ぐんで憤懣の抗議をしようとした私を差し止めたのは、厳粛で、苦痛を表わすグルジェフの目に他ならなかった。

私はただ頭を下げ、うなずき、彼と一緒にゆっくり歩いて本館へ戻り、階段を登って、彼の部屋の人口まで連れ帰った。


十一歳の私は自己憐憫を知らぬわけではなかったが、この新しい仕事は私の手に負えそうもなかった。

実のところ、自己憐憫といった気持は、この時に経験した心理過程のほんの一部を成すに過ぎなかった。

私は憤慨し、敵意さえ感じた。

何も認められず、感謝もされなかったばかりか、事実上、罰せられたのだ。

いったい、この学校とはどういう所なのか、グルジェフとは、どういう類の人物であるのか?

苦々しく、しかし誇りさえ混じえて、秋にはアメリカへ帰る予定であるのを思い出した。

彼に見せつけてやろうとも。

一日で芝を全部刈るなんていうことをしなければよいだけだ!


奇妙にも、気分がおさまり、避けられそうもない事態を受け容れ始めると、まだ怒りと憤懣は治まらなかったものの、そういう気持がグルジェフ個人には向けられていないということに気がついた。

一緒に歩いたとき、彼の目は悲しそうだった。

グルジェフのこと、彼の健康が気にかかった。
この仕事を義務づけられたわけではなかったが、私はある種の責任を引き受け、グルジェフのために果たさなければならないと感じた。

 

(出典:「魁偉の残像」フリッツ・ピータース著 めるくまーる社刊)

言葉の力とガーヤトリー・マントラ9 純正律

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周波数の影響を考えた時、音楽の和音が調和している場合と不調和な場合では、人体への影響に違いが生じるかもしれません。

 

一般的に音楽で使われている調律は、平均律という調律です。

 

これは、オクターブを12等分して音階を作る方法で、平均律によって転調が自由にできるようになり、複雑な曲を作ることができるようになりました。

 

しかし、平均律の和音は、不調和な和音になるため、うなり音が生じます。

 

 

反対に、完全に調和のとれた和音を作る場合は、純正律という調律にします。

 

純正律には、ピタゴラス音律、ミーントーン、キルンベルガー、ヴェルクマイスターなどがあります。

 

平均律が使われるようになる前の時代には、純正律が使われていました。

 

クラシック音楽は、純正律で演奏されることが前提で作曲されているものも多いと思います。

 

純正律は、ハーモニーが美しいため、人間の脳を活性化させたり、自律神経系を安定させる作用があるそうです。

 

 

現代でも、ア・カペラ合唱やオーケストラなどでは、純正律が用いられることが多いです。

 

アイルランドの歌手のエンヤや、イギリスの合唱団のリベラなどは、純正律で歌っています。

 

純正律は、和音にうなりが生じないため、美しいハーモニーになります。

 

私もア・カペラ合唱団で合唱をしていたことがありますが、ヤマハのハーモニーディレクターというキーボードを使って、純正律でピッチを調整していました。

 

人間の脳は、周波数レベルでの音の調和をきちんと判別しているようです。

 

平均律は平均律の良さがありますが、ハーモニーの美しさを重視する場合は、純正律が重要ですね。

純正律の響きには、様々な病気のヒーリング効果もあるそうです。

 

 

究極のアート6 カプチン派修道士の姿をしたティトゥス

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レンブラントの「カプチン派修道士の姿をしたティトゥス」です。

 

ティトゥスというのは、レンブラントの息子です。

 

他にも、ティトゥスを描いた作品がいくつかあります。

 

栗城さんについて

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昔、友人に頼まれて、栗城史多さんの講演会の音響をしたことがあります。

 

講演会の後、握手をしながら、「今後ともよろしくお願いします」と私に言った時の、彼の謙虚さや腰の低さを思い出します。

 

いろんな方の講演会の音響をしましたが、挨拶もせず、目も合わせなかった演者もいました。

 

しかし、栗城さんは、私にも丁寧に挨拶をし、謙虚に接してくださいました。

 

登山家としては、実力の面で批判も多かったと思いますが、彼と同じような活動が実際にできるのかと問われれば、私にはとてもできません。

 

資金を集めるというだけでも、大変なことです。

 

でも、彼自身も、多くの批判があることに心を痛めていたからこそ、無理なチャレンジをし続けてしまったのかもしれません。

 

どこかで方向転換をしてほしかったなと個人的には思います。

 

 

ニーム・カロリ・ババの物語79 途方もなく大きな愛が、ゆっくりと私のなかに広がりはじめた

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ニーム・カロリ・ババと愛についてのエピソードをご紹介します。
 
ニーム・カロリ・ババの教えは、バクティ・ヨーガという信愛のヨーガの教えです。
 
これは、神なるものや万物を愛するという道です。
 
ヨーガには、ハタ・ヨーガのように肉体からアプローチするものや、ジュニャーナ・ヨーガのように智慧からアプローチする道がありますが、これらには専門的な指導が必要です。
 
しかし、バクティ・ヨーガの場合は、愛するという道ですから、誰でも取り組むことができます。
 
もちろん、誰でも取り組むことができるからといって、簡単な道ではないと思います。
 
愛するというのは、簡単なようでいて、本当に難しいことだと思います。
 
 

マハラジは、『ラーマーヤナ』のスンダラカーンダの章を朗読させるのが好きでした。

この物語のなかでラーマ(神である夫)は、離れ離れになったシーター(帰依者である妻)にメッセージを伝えます。

ラーマは、彼女のような純粋な帰依者と離ればなれになっている苦しみについて語ります。

 

「人の苦悩は話すことで、ある程度は和らぐ。

しかし、私はいったい誰に話せばよいというのか?
私を理解してくれる者はいない。

愛しい人よ、あなたと私とを結びつける愛の音色の真実は、私の魂だけが知っている。

私の魂はずっとあなたのところにとどまっている。

これが私の愛の本質だとわかってほしい」


この箇所が読まれると、マハラジの頬を涙がつたい、至福の状態になりました。

ちょうどマハラジと私たちを結びつけていたのも、まさしく、このような愛のクオリティでした。

リンゴや優しさ、冗談、できごと、罵声などのなかに、またはそれらを超えたところに愛があったのです。

マハラジはたびたび愛について語りましたが、つねに彼自身が愛なのです。

 

マハラジはカビールの言葉をよく引用しました。

「布を染めるのは簡単だが、心を染めるのはむずかしい」

 

ある晩、ケンチの寺院で、私ともう一人の帰依者がマハラジのそばに座っていました。
その人はのろのろとした一本調子で、マハラジに新聞を読んでいました。
私は、心のなかでこう思いました。


「マハラジ、どうしてこのような退屈な人に我慢できるのですか。

いったい、どうして耐えられるのですか」


すると、途方もなく大きな愛が、ゆっくりと私のなかに広がりはじめたのです。
その愛は、どんどん大きくなっていき、もう少しで心が張り裂けそうになりました。
ちょうどその瞬間、マハラジが私の頭に手をおくと、その感覚が止まりました。
ふたたび呼び戻そうとしても、できません。
見あげると、マハラジが慈愛にあふれて微笑んでいます。
私は涙がこぼれそうになりました。

 

私はマハラジに家に来てほしいと思っていましたが、まだ直接には申し込んでいませんでした。
でも、ダダが私の招待を手助けしてくれるかもしれないと思い、希望を伝えておきました。
二、三週間前に、私はマハラジに会ったばかりだったのです。

 

ある日、マハラジの部屋の窓の外に立っていると、なかに呼ばれました。
部屋には、マハラジとダダがいました。
足を踏み入れたとたんに、私は普段とは違う意識状態に入ったような気がしました。
とりわけ、ハートチャクラのところに大きな穴があいているのがわかりました。
私のハートチャクラは、ぽっかりと口をあけた空っぽの暗黒だったのです。
かろうじて見聞きすることはできましたが、きっと口はぽかんと開いたままになっていたでしょう。
私は瞬きすらできませんでした。
二人は話をしていました。
マハラジは私を見て、ダダに話しかけ、ダダがそれを通訳してくれました。
それによると、私が住む村の住人はみんな悪意があり、マハラジに対する愛がないので、訪問することはできないということでした。
それから、マハラジは私を部屋から出しました。


あとで、ふだんに近い意識状態に戻ったとき、私は、自分の心が俗世の欲望にあふれ、マハラジの愛が入る場所がないので訪問できないといわれたように感じました。
でも、このダルシャンによって、私の心はマハラジが入ってこられるように掃除されたような気がしました。

 

心の鏡を洗い清めなさい。

そうすれば神を見るだろう。

 

たとえ誰かに傷つけられたとしても、愛をあたえなさい。
最悪の懲罰は、心から人を追い出してしまうことだ……。
すべての人を、神として愛さねばならない。
互いに愛しあいなさい。
互いに愛しあうことができなければ、おまえたちはゴールに到達できない。

 

クンバク(息を止めておくこと)は、バクティ(献身)を通じても可能だ。
感情が極まるとき、呼吸は止まり、精神は一点に集中する。

 

人の心を傷つけてはならない。

 

このような平和と愛は、母親や父親、妻、あるいは、ほかの誰からも、決して得られるものではありません。

それほど途方もないものだったのです。

 

聖者の心はバターのように溶ける。
いや、それはバターよりも溶けやすいのだ。
バターは火のそばに置かなければ溶けない。
しかし、聖者の心は、誰かの心が火に近づいただけで溶ける。

(マハラジがカビールを引用して)

 

マハラジの話をしてほしいと頼まれて、ある人はこう言いました。

「私はマハラジとほんの短い期間(二十八年間)しかいなかったので、彼のことはほとんど知りません。

それなのに何をお話できるでしょうか?

私が知っているのは、マハラジが私の家族に特別な愛をあたえてくれたということです。
その愛は言葉やかたちを超えていたので、表現することはできないのです」

 

「なぜおまえはわしを愛しているのか?」と、マハラジはある女性にたずねました。


「わかりません、マハラジ」
 

マハラジはこの問いを何度も何度も繰り返しました。

そして、最後にこう言ったのです。

 

「おまえがわしを愛しているのは、わしがおまえを愛しているからだ」

 

帰依者のひとりがたずねました。


「私たちが互いに愛しあうことが、あなたへの愛を妨げることはありますか?」
 

「愛が純粋ならば、何ものをも妨げることはない」

 

ある西欧人が、北インドでよく知られ、尊敬されていた聖者デオーリア・ババのダルシャンに行きました。

彼女は戻ってくると、その聖者がマハラジのことを愛の化身だと言っていたと話しました。


「何を言っとる、あの悪党め!

あいつに何かわかる?

いったい何様だと思っとる」
 

マハラジは賛辞に対して、こう怒鳴ったのでした。

 

「マハラジは愛の化身でした。

宗教ではなく、愛でした」

 

愛は最も強力な薬だ。

その力は電気よりも強い。

 

「暗闇や分離を感じたら、どうすればよいのでしょうか?」


「神をしっかりと愛していれば、分離は存在しない。
あらゆるものを愛せば、悪魔は存在しない」

 

たとえ人に傷つけられ、侮辱されても、あらゆる人を神として愛しなさい。
ガンディーやキリストのようでありなさい。

 

「神を愛する以上に畏れたとしたら、どうなるでしょうか?」

 

「神への畏怖は、まさしく別の形の愛だ」

 

(出典:「愛という奇蹟」ラム・ダス編著 パワナスタ出版)

 

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